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東京地方裁判所 昭和62年(ワ)7029号 判決

中華民国台湾省〈以下省略〉

原告 郭崑耀(クオ・クン・ヤオ)

右訴訟代理人弁護士 香村博正

同 笹原桂輔

同 笹原信輔

アメリカ合衆国デラウエア州〈以下省略〉

(日本における営業所東京都杉並区〈以下省略〉)

被告 アメリカン・エキスプレス・インターナショナル・インコーポレイテッド

日本における右代表者 ジェイムス・イー・マローニ

右訴訟代理人弁護士 中元紘一郎

同 角山一俊

同 平田晴幸

右訴訟復代理人弁護士 赤羽貴

主文

一、原告の請求をいずれも棄却する。

二、訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1. 被告は原告に対し、金二万九五〇〇米ドル及びこれに対する昭和六二年六月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2. 訴訟費用は被告の負担とする。

3. 仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二、当事者の主張

一、請求の原因

1. 原告は、昭和六一年三月二〇日ころ、被告の代理店である常陽銀行池袋支店において被告の発行にかかる額面五〇〇米ドルの旅行者小切手六〇枚(続き番号でGA一九五三四〇一九ないしGA一九五三四〇七八。以下番号は下三桁だけで表記する。)を購入したが、同購入契約上、購入者が旅行者小切手の左側上部の署名欄に消え難いインクで署名し、左側下部の副署名欄に署名をしていない状態で、右旅行者小切手を紛失し又は盗まれた場合には、被告に対してその額面額の払戻しを請求しうるとされている。

2. 原告は、前記旅行者小切手を購入後直ちにそのすべての左側上部の署名欄のみにボールペンで「KUO KUN YAO」と署名した。

3. ところが、原告は、昭和六一年三月二四日、旅行先のタイ国バンコク市内ナライホテルに滞在中、前記旅行者小切手のうち五九枚(番号〇二〇ないし〇七八のもの。以下「本件旅行者小切手」という。)を同ホテルの自室内の金庫に保管しておいたところ、これを訴外ベン・リー・ホー・リュー(以下「リー」という。)に盗まれた。

右盗難事故により、被告は原告に対し、前記旅行者小切手購入契約に基づき額面金額の払戻しをする義務がある。

4. また、その後被告はリーの支払請求に応じて同人に対し本件旅行者小切手五九枚の支払いをしたが、原告は右盗難事故の直後に被告のタイ国営業所に盗難届を提出していたのであるから、被告は、実質的無権利者であることが明らかなリーの支払請求に対してはこれを拒絶しえたはずである。したがって、被告は右支払いにより免責されることはなく、原告は本件旅行者小切手の正当な所持人たる地位を失っていないのであり、旅行者小切手が自己宛小切手の一種であることから、本件旅行者小切手に基づく小切手法上の権利行使をすることができる。

5. よって、原告は被告に対し、旅行者小切手購入契約又は小切手法上の権利に基づき、二万九五〇〇米ドル及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和六二年六月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二、請求原因に対する認否

1. 請求原因1は認める。

2. 同2は否認する。

原告は本件旅行者小切手の左側上部署名欄に署名していないか、署名したとしても、その署名は消しゴム等で容易に抹消することの可能な鉛筆類でなされたものである。

3. 同3は否認ないし争う。

4. 同4のうち、原告が被告の営業所に本件旅行者小切手の盗難届を提出したこと、その後被告が本件旅行者小切手のうち五八枚(番号〇二〇を除く。)の払戻しをしたことは認め、その余は否認ないし争う。

旅行者小切手を紛失し又は盗難にあった者の保護は購入契約上の払戻請求によって図られているのであり、所定の要件を満たさない限り、現に旅行者小切手を所持していない者に対して被告が支払義務を負うことはない。なお、右払戻請求権は、当該旅行者小切手の支払いの有無とはまったく無関係に認められるのであり、原告による盗難届の提出の有無や本件旅行者小切手の支払いによって影響されるものではない。

第三、証拠〈省略〉

理由

一、本件旅行者小切手購入契約に基づく請求について

1. 原告が被告の発行にかかる額面五〇〇米ドルの旅行者小切手六〇枚を被告の代理店から購入したこと、右旅行者小切手購入契約上、被告は原告に対し、その購入した旅行者小切手の紛失・盗難の際の額面額の払戻しを約したこと、右払戻請求の要件として、原告が紛失・盗難前に旅行者小切手の左側上部の署名欄のみに消え難いインクを使用して署名することが要求されていたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

2. そこで、右要件について判断するに、その記載及び弁論の全趣旨によって本件払戻請求にかかる旅行者小切手(番号〇二〇を除く。)であると認められる乙第一号証の一ないし五八の態様(検証物として採用)、証人荒居茂夫の証言及びこれにより成立の認められる乙第五号証によれば、本件旅行者小切手のうち番号〇二〇のものを除く五八枚については、左側上部及び同下部の各署名欄に、いずれも青色インクで「Ben Lee Hu Liao」との署名があるが、左側上部署名欄には、右署名と一部重なるようにして「KUO KUN YAO」又はその一部と判読することのできる圧痕が残されていることが認められ、これに原告本人尋問の結果を総合すると、少なくとも番号〇二〇を除く本件旅行者小切手の左側上部署名欄には何らかの筆記具による原告の署名があったが、その後抹消されたものと認めることができる(番号〇二〇の旅行者小切手については後述する。)。

3. そして、原告は右署名にはボールペンを用いたと主張し、原告本人尋問の結果中にはこれに沿う部分もあるが、前掲乙第五号証及び証人荒居茂夫の証言によれば、本件旅行者小切手にインク又はボールペンで筆記した場合、通常これを抹消するためには市販のインク消しその他の化学薬品を用いる方法によるか、砂消しゴム等を用いる物理的方法によるかしかないが、いずれの場合にも周囲の印刷文字の消失、変色又は紙の表面の荒れなどの顕著な痕跡を残すこと、しかし、前記旅行者小切手を相当の注意を払って観察しても、原告の署名の圧痕及びこれが抹消された痕跡は窺えず、斜光線をあてたり拡大写真を撮影するなどの方法によってようやく前記圧痕の存在及びその周囲の印刷文字が薄くなっているという程度の痕跡が確認できるに過ぎないこと、また、右抹消部分付近の紙面の荒れはほとんどなく、これは通常の柔らかい消しゴムを使ったときの特徴であること(なお、本件旅行者小切手中には青色インクによるリーの署名の一部が抹消されているものがあるが、右抹消部分については、周囲の印刷文字の消失が明白に現れている。)、以上の事実が認められる。

右認定事実によれば、少なくとも番号〇二〇を除く本件旅行者小切手の左側上部署名欄の原告の署名は、鉛筆等の消え易い筆記具を用いたものと考えざるを得ず、これと反する原告の前記供述は採用することができない。そして、他に原告の前記主張を認めるに足りる証拠はない(原告は右筆記具についての鑑定を申請したが、その採用・着手後にこれを取り下げた。)。

また、本件旅行者小切手のうち番号〇二〇のものについては、本件訴訟において原本も写しも提出されていないが(弁論の全趣旨によれば、被告に対する支払請求がなされておらず、被告の手元に存在しないことが認められる。)、原告本人尋問の結果によれば、右旅行者小切手も他の本件旅行者小切手と同じ状態で保管しておいたものをリーに盗まれたというのであり、これについても本件旅行者小切手の他のものと同様の筆記具による署名がなされていたと推認することができる。

なお、原告が本件旅行者小切手とともに番号〇一九の旅行者小切手も併せて購入したことが当事者間に争いがないところ、これについては写しのみが提出されており(原本の存在及び成立に争いのない乙第四号証)、その原告の署名がいかなる筆記具によりなされたものか不明であるが、原告本人尋問の結果によれば、右旅行者小切手は本件旅行者小切手が盗まれたという以前に原告が自ら使用したことが認められるので、右旅行者小切手の署名が消え難いインクによりなされていたとしても、本件旅行者小切手の署名に関する以上の認定を左右するとはいえない。

4. 以上により、その余の点を判断するまでもなく、原告の本件旅行者小切手購入契約に基づく払戻請求は理由がない。

二、小切手法上の権利に基づく請求について

原告は、被告による本件旅行者小切手の支払前にその盗難届を提出していたから、右支払いによっても本件旅行者小切手の正当な所持人たる地位を失わないと主張する。

しかし、成立に争いのない乙第二号証によれば、本件旅行者小切手の購入契約上、被告は、旅行者小切手の支払請求を受けた場合、左側上部と下部の署名の同一性が認められる限り、当該旅行者小切手の事故届が提出されていてもその支払停止及び支払拒絶はできないとされていること、購入者が左側上部署名欄に署名をしていない旅行者小切手を紛失し又は盗まれても一切保護されない旨が明記されていることが認められる。

この事実に弁論の全趣旨を総合すると、旅行者小切手は、署名の対照という形式的審査のみによって被告に支払いを強制するとともに、旅行者小切手を紛失した購入者には、所定の要件を満たす限り、第三者による善意取得や被告の支払いの有無とは無関係に払戻請求権を与えるという仕組みになっていること、したがって、被告は二重払いの危険を引き受けることになるが、その反面、そのような事態を防止するため、購入者に対して、あらかじめ旅行者小切手の左側上部に消え難いインクにより署名することを最低限のルールとして要求していることが認められる。そして、旅行者小切手が以上の方法により旅行者小切手の所持人の静的安全と流通の確保及び被告の危険とを調和させようとする有価証券である以上、右署名がなされていなかった場合には、購入契約上の払戻請求権が否定されるに止まらず、原告の盗難届によって被告による本件旅行者小切手の支払いが不適法なものになったかどうかを問題にするまでもなく、原告主張のような小切手法上の権利行使も認められないものと解するのが相当である。

したがって、前記認定のとおり、本件旅行者小切手について原告が所定の署名をしていなかった以上、原告には本件旅行者小切手の小切手法上の権利に基づく支払請求権は認められない。

三、以上により、原告の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 稲葉威雄 裁判官 山垣清正 宮坂昌利)

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